松山市に鎮座する井手神社。御祭神は大山祇神、木花開耶姫神、橘諸兄公、橘嘉智子皇后、橘清友公を祀り、五社大明神と呼ばれた。
往古、橘岡にあって大山祇神と木花開耶姫神を祀っていたが、橘清友が伊予国司となった際に橘氏の祖橘諸兄の神霊を配祀したという。
元は石手川の左岸に鎮座していたが、慶長年間の河川改修で右岸へ移った。
鳥居の先に社殿が建つ。
拝殿に参る。
拝殿には入れなかったが、「正一位井手神社」の扁額がかかる。橘諸兄公が生前いただいた官位を神社名に冠していて神階とは関係ないようだ。
夕方5時を過ぎていたので、参拝後早々に社務所で御朱印をいただく。
拝殿の左側に境内社が並ぶ。手前から橘天満宮、金刀比羅宮、厳島神社の三社相殿。
橘天満宮の横に河野通有像が建つ。元寇で活躍した伊予水軍の大将として有名。
祖霊社
橘夷子神社
祖神社、橘稲荷神社、素鵞神社の三社相殿。
本殿の左には松山市指定文化財のにっぽんたちばなが満開だった。ミカン類唯一の日本固有種で、西海道と南海道にしか自生していないという。
御垣内の本殿。幣殿はよく見えない。
角に神輿庫が建つ。案内板では前にムクの大木があったようだが、切株が残るのみ。
本殿の裏にイチョウの御神木があり、
本殿右の御垣内にクロガネモチの木がある。
参道を挟み社務所の反対側の庭に、天満宮一千年祭紀年碑と筆塚が建っている。
井手神社
愛媛県松山市北立花町2-4
松山市に鎮座する雄郡神社。御祭神は天宇受売命、品陀和気尊、帯中日子尊、息長帯姫尊。日本三代実録記載の神社で、いわゆる式外社。松山八社八幡の四番社で正八幡と呼ばれた。
松山城あたりから歩いて行ったら、思いのほか距離があった。暑かったので待ち時間に近くのコンビニでアイスを買う。
鳥居をくぐって参道を行くと神門が建つ。
神門前の左に「左馬殿の松」との碑がある。左馬殿とは、左馬助の官位だった加藤嘉明のこと。お手植えの松だったらしいが昭和末期に枯死し、現在の松は二代目。
拝殿に参る。
拝殿には大きな絵馬がたくさん掲げられている。
拝殿の右に金砂神社
祠の下に福助人形がたくさん納められているが、どういう由来か分からない。
金砂神社の右に愛宕神社
拝殿の左に藤廼社
藤廼社の近くに弁天社
拝殿の左右から本殿を取り囲むように廻廊が巡る。
廻廊には三十六歌仙の額や絵馬などがたくさん掛かっている。拝殿のものと合わせると、崇敬の篤さがうかがえる。
本殿
廻廊に潜水艦たけしおの正式参拝の写真が掛かっていた。たけしおは雄潮型と呼ばれる潜水艦らしく、確認できなかったが艦内神社として雄郡神が祀られているのかもしれない。
境内の入口の参道左方に稲荷神社、祇園社、三光社が祀られている。
境内には忠霊塔も建っている。
駐車場には「雄郡小学校発祥之地」の碑が建っている。
境内に隣接して社務所が建つ。参拝したときにちょうど祈祷が始まったので30分ほど待って御朱印をいただいた。
雄郡神社
愛媛県松山市小栗3丁目3-19
松山市に鎮座する阿沼美神社。御祭神は大山積命、高靇神、雷神、味耳命を主祭神とする。延喜式温泉郡の論社のひとつ。
もとは松山城のある勝山に鎮座し勝山三島大明神と呼ばれた神社という。
社前にもまっすぐに道路が延び、どこまでが参道だったのだろうか。
境内の参道も長く、市街地にあるにしては広い。途中に鳥居が建つ。
鳥居の横に「式内 阿沼美神社」の社号碑が建つ。
社殿の背後にビルが見えるにも、いかにも市街地の神社らしい。
拝殿に参る。中には入れなかったが、覗くと「延喜式内 阿沼美神社」の社号額がかかる。
社殿に隣接する授与所は無人だったので、隣の社務所兼自宅でお願いして授与所で御朱印をいただく。
拝殿の左手に稲荷神社
拝殿の右手に四社の境内社が並ぶ。
手前から伊余夷子神社
勝山八幡神社。松山八社八幡の八番社
味酒天満神社
金刀比羅神社
「一千年祭紀年碑」が建っていたが、いつから1000年だろうか。
創建は664年とされ1664年だと古すぎる、と思っていたら延喜式がまとめられた927年だったら1927年だから戦前で盛り上がったことだろう。
阿沼美神社
愛媛県松山市味酒町3-1-1
松山市に鎮座する出雲大社松山分祠。御祭神は大国主大神。
出雲大社の御分霊を祀る会社でいうところの地方支店というところ。松山分祠は出雲大社の真南に位置するという。
境内はかなり手狭な感じだが、社前の道路のため削られているのかもしれない。
大国主大神は大黒天と習合されてきたため、伊予七福神の大黒天になっている。
鳥居をくぐるとすぐ拝殿が建つ。拝殿に参る。
拝殿にかかる注連縄は分祠でもやはり太い。
授与所で御朱印をいただいた。
出雲大社松山分祠
愛媛県松山市本町三丁目5-5
味酒に鎮座する阿沼美神社は、もと勝山(標高132m)に鎮座していた。
加藤嘉明が松山城を築城する際に西側の味酒に遷座した。
現在本丸は広い空間となっているが、築城の際に削平された可能性もあり、正確な鎮座地はわからない。
阿沼美神社(旧地)
愛媛県松山市丸之内1
松山市に鎮座する松山神社。御祭神は徳川家康公、菅原道真公を主祭神とし、大己貴命、少彦名命を相殿に祀る。
元和4年に加藤嘉明が伊佐爾波神社の境内に東照権現を祀る小祠を建てたのが創祀で、明和2年に久松松平家の8代定静が現在地に遷座した。
神社は南向きに参道が延び、上り階段の途中に鳥居が建つ。
鳥居をくぐり、階段途中の右手に社務所への入口がある。
東照宮が現在地に遷座したのは松山城の鬼門を守護するためでもあったが、なるほど小高い境内地からは城下町の中心の丘に築城された松山城がきれいに望める。
階段を上り終えると唐門が建つ。社殿を取り囲むように透塀が囲む。
中に入り、拝殿に詣る。右には御供所の建物が建つ。
左にまわり本殿。東照宮特有の権現造。菅原道真公が太宰府左遷の途中、この丘に立ち寄り温泉に浴したという伝説地として里人が祀ったという天満神社を合祀し、松山東照宮は松山神社と改称した。
拝殿の左手に境内社が一社。
今日は社殿前で宮司が作業していたので、拝殿前の授与所で御朱印をいただいた。
松山神社
愛媛県松山市祝谷東町640
松山市に鎮座する湯神社。延喜式温泉郡の比定社。御祭神は大己貴命、少彦名命。
当宮は景行天皇が皇后八坂入姫と行幸したときに鶯谷の大禅寺の前に創建したと伝わる。大永7年の地震で道後温泉が埋没したときに、延喜式温泉郡出雲崗神社の境内に遷座して境内社となり、幾度かの出湯祈祷を経るなかで、出雲崗神社の御祭神の素盞嗚命、稻田姫命を合祀するに至ったという。
階段を上って境内に入る。
階段の途中の建物は参集殿らしき建物。
冠山の山頂の境内前は道後温泉の有料駐車場になっている。右手に社殿が並び、手前に境内社の中嶋神社が建っている。御祭神は田道間守命で、但馬国出石郡の式内社の御分霊を四国の製菓業者により創祀されたそうだ。
隣の小祠は児守社だろうか。
隣の湯神社に参る。
本殿を裏から見上げる。両側に末社があり、三穂社(御祭神は事代主命、蛭兒命)と八幡若宮社(御祭神は大鷦鷯尊)。
社殿前の社務所で御朱印をいただく。
待っている間にガラスに貼ってある「玉の石の伝説」を読んでいました。
道後温泉は当宮の御祭神である大己貴命、少彦名命が開いたとされ、その開湯伝説のようで、伊予国を訪れた際、少彦名命が重病に苦しみ、大国主命が手のひらに少彦名命をのせて温泉に入浴させたところ調子が良くなり、少彦名命は喜びのあまり傍の石の上で舞い踊ったという話です。
その石を「玉の石」といい、道後温泉の傍らに奉られていると書かれていましたので、御朱印をいただいた後、場所をお聞きすると、下の道後温泉本館の横にあると。
湯神社の裏、北側に行くと眼下に本館が見える。
階段を下りていくと、裏参道の鳥居が建っている。
ゴールデンウィークともあって大勢の人で賑わっている。
周囲を右回りに歩いて行くと、北側に「玉の石」を見つけた。左回りのほうが早かった。
ここも観光スポットのようで、石にひしゃくで水をかけて願かけする場所になっていて行列になっていた。
湯神社
愛媛県松山市道後湯之町4-10
松山市に鎮座する伊佐爾波神社。延喜式温泉郡伊佐尓波神社の比定社。御祭神は誉田別尊、足仲彦尊、氣長足姫尊、三柱姫大神(市杵島姫尊、湍津姫尊、田心姫命)を主祭神とし、東照大神を配祀する。
道後温泉街の東方の山に鎮座する当宮への参道口に大鳥居が建つ。
右手に湯神社を通りすぎ境内入口に至る。
灯籠横の案内には「道後七郡総鎮守」と書かれ、その起源は仲哀天皇と神功皇后が道後温泉に来浴した時の行在所跡に建てられたといい、湯築八幡と呼ばれた。
また、河野氏の湯築城の鎮守として現在地に遷座し、加藤氏の定めた八社八幡の一番社とされた。
長い階段が続き、一気に上る。
石段の途中に素鵞社が建つ。
上りきると社殿が現れる。宇佐神宮、石清水八幡宮と並び日本三大八幡造りと言われ、国指定重要文化財になっている。
廻廊の中は朱色に塗られ、屋根裏の蛙股には兎や鯉の彫刻が鮮やかだ。
拝所に参る。拝所には「湯築八幡宮」の扁額がかかる。
廻廊を右回りにまわる。本殿右側(南側)に新田霊社
廻廊内には奉納絵馬が多数展示されている。
本殿は南側からが見やすい。二重の屋根が連なる八幡造り
本殿左前(北側)に高良玉垂社
社殿の前に社務所が建つ。
帰り道、眼下に松山市内が見えるが、木々で正面以外は視界が遮られる。次の湯神社へ向かう。
伊佐爾波神社
愛媛県松山市桜谷町173
松山市に鎮座する東雲神社。御祭神は天照皇大神、豊受大神、天穂日命、菅原道真公、息長福玉命(伊予松山藩祖松平定勝)、奇足玉命(伊予松山藩11代藩主松平定通)、真都栄命(伊予松山藩16代藩主松平定昭)、稚国玉命(藩祖松平定勝の嫡男松平定吉)を祀る。
11代藩主松平定通が藩祖を祀った仮宮(後の東雲神社)が創祀で、昭和20年に空襲で焼失し、昭和46年に松山大神宮が跡地に奉遷され、2年後に東雲神社の神霊が合祀されたという。つまり、もとの東雲神社の御祭神は伊予松山藩松平家の祖神を祀ったものと言える。
当宮は松山城内に鎮座するので、社号標の建つ参道入口は松山城への登山口のひとつになる。
階段を上り最初の平場に出ると、締め柱が建ち、天主への分かれ道となる。
階段を上り門をくぐると、白い花がついたナンジャモンジャの木(ヒトツバタゴ)。とてもきれいに咲いている。
さらに階段を上っていくと、途中に鳥居が建つ。
さらに階段を上るとようやく社殿が見えた。階段が急なこともあり、ここまでかなり息が切れる。
拝殿に参る。廻廊の奥に本殿が見える。
御垣の裏にまわると本殿は2棟並んでいる。真ん中の本殿が松山大神宮のもの、左に建つ本殿がもと東雲神社のものだろうか。
拝殿の左手前に社務所が建つ。
今日は朝早くて無人だったが、無情な貼り紙が・・・。正月3が日以外は御朱印はしていないとのこと。
東雲神社
愛媛県松山市丸之内73番地1
39歳を目前にして御朱印デビュー! 日本全国の神社の御朱印や参拝記録